足尾銅山と山谷(やま)

坪一さんのあしあと

今では宿泊する人がいない「ドヤ」の2階廊下から覗く階下 2017.12.30 撮影
今では宿泊する人がいない「ドヤ」の2階廊下から覗く階下 2017.12.30 撮影
玄関入口横の帳場 
玄関入口横の帳場 

編集にあたり、語り手の表現、インタビュー時の臨場感を尊重し、そのまま文章にしています。

少々読みにくいと感じられる箇所もございますが、ご理解をいただいた上でお楽しみいただければ幸いです。

 


プロジェクトのはじまり

 

坪一さんとの出会いは2014年夏ごろである。住んでいたドヤ*の仲間から、隅田川医療相談会の存在を教えてもらい、相談に来る。

生活相談に来た坪一さんはどう見ても82歳に見えず(10歳位若いように見える)、皆でびっくりした。

生活状況や年齢、病状を聞き取り、すぐにでも生活保護を申請したほうがいい状況だったが、

坪一さん自身が「役所にお世話になること」をためらっていた。

そのため、私たちはドヤへ交代で会いに行き、説得をする。ようやく生活保護を申請したのは秋ごろになってからである。

 

現在では私たちの事務所のすぐ近くでアパート生活をしており、自転車で顔を出してくれる。

坪一さんと関わる中で、今までどのように暮らし、仕事をしてきたのかを聞かせてもらった。

19歳で家を出て、トンネル工事、足尾銅山、全国の炭鉱、そして山谷にたどり着き、長年日雇い労働者として働いてきた。普段寡黙な坪一さんは仕事のことになると目を輝かせながら話してくれる。どのように働いてきたか。場所や一緒に働いた仲間のことも。今まで一番楽しかったことは「山谷で仲間と一緒に働いてきたこと」。

 

戦中戦後を生き抜き、日本の近代化を支えてきた坪一さんの言葉を記録し、たくさんの方に知ってほしい、

という思いでこの「あしあとプロジェクト」がはじまる。

 

***ドヤ : かつて日雇い労働者が宿泊していた三畳一間の簡易宿泊所のこと。

   現在は、労働者の高齢化や住まいを失った方でもすぐに入居できることから、生活保護を利用している方が多い。

 

 

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─ 1932年(昭和7年)、群馬県利根郡に5人兄弟の長男として坪一さんは生まれた。

13歳で敗戦を迎え、中学卒業後は、実家の農家の手伝いをした。

1951年(昭和26年)、19歳になった坪一さんは、実家から逃げ出し、ダム建設の隧道(トンネル)工事で働く。

 

足尾の奥さん連中に誘われ働くようになる。

 

 

 

坪一さんの掌。今日までに刻まれた時間の集積。
坪一さんの掌。今日までに刻まれた時間の集積。

19歳-26歳 転機

 

 

工事の仕事を始めたのが19歳のときだね。中学卒業して実家の農家手伝っていて。家の田植えが終わってから高崎の近くに田植えの手伝いに行ったんだ。行けって言われて。5人ぐらいのグループで。行くふりして、途中で俺だけ抜けちゃったの。それで水上に行ったの。それが19歳。

 

足尾駅のすぐ隣の通洞駅*から出ると簀子山(すのこやま)っていうのがあるんだよ。そこへみんな、廃石を捨てるわけ。

足尾行ったとき、最初は隧道工事で行ったんだよね。足尾銅山から出る砂を捨てる場所を造るんで。ただ捨てちゃうと雨が降ると下へ流れてくるから、排水路を脇に造ったわけ。その水を流す隧道を掘ったんだよね。

あの頃、東京から吾妻企業のダンプカーが何台も来ていた。

 

 

*通洞駅 :閉山後も簀子橋堆積場は残っているが、ふだんは立入厳禁。

 

 

─ 1958年(昭和33年)、26歳の坪一さんに転機が訪れる。

 

そしたら、足尾の奥さん連中が職場に来てて、足尾銅山に入りなさい、入りなさい、辞める時は退職金も出るし、ボーナスも出るし、建設会社よりはいいからと。それで入ったのよ。隧道工事は飛島建設。今は、いつも俺らが出入りしていた通洞坑からトロッコ電車に乗れるんだよ。

 

 

 

記憶…足尾銅山

足尾銅山内の削岩風景  写真提供:新井常雄氏「足尾銅山写真帖」随想舎
足尾銅山内の削岩風景  写真提供:新井常雄氏「足尾銅山写真帖」随想舎

─ 閉山後の坑道を一部開放して観光地化している足尾銅山に一緒に行き、当時の様子を語ってもらった。

 進鑿夫(しんさくふ)として働いた5年間。20代の後半。

 人生の絶頂期だっただろう。目を輝かせ、身振り手振りをまじえて坪一さんが語る。

 

進鑿(しんさく)をやるときには養成機関があって、ダイナマイトの成分が何かとか、導火線の燃える速さとか、1メートルでどれくらいとか。それでなる。養成は半年くらいかな。立ち上がりとか、階段堀りとか、ひ押しとか、たてこう立坑堀りとか教えるんだよ。穴を掘るときは芯抜きっていう掘り方がある。おいらは隧道工事でやっていたから、掘り方はわかっていた。

 

仕事していた当時は、通洞坑から30分くらい歩きで自分のきりは切羽(きりは)*まで行った。

 

大概、山のいいとこだったら削岩機で1㍍50くらい穴あける。それで全部4箇所の穴終われば火薬を込めて鳴らす。

それで帰ってくるわけだよ、自分の今日の仕事は終わり。

 

 

足尾銅山坑内。ストーパーで上向き穿孔して発破していく。*写真提供 :撮影/新井常雄氏「足尾銅山写真帖」随想舎
足尾銅山坑内。ストーパーで上向き穿孔して発破していく。*写真提供 :撮影/新井常雄氏「足尾銅山写真帖」随想舎

 

 

 

 

 

水を使わないとホコリがいっぱい、だって石のところ掘っていくからね。削岩機で水が通るようにできている、だから水を出しながら掘る、掘った砂が水で流れてくる。

機械が故障することもある。部品の故障、自分でどこが悪いとかわからないと。

ウォーターチューブが悪いとか、交換しなくちゃ、全部自分でやらないと。

 

悪い切羽(きりは)*には水が通っているんだよ、塩ビ管でね。

悪い奴はその切羽をやりたくないと思ったら、塩ビ管に石を落として、「今日はこの現場落石で水ホースが壊れて仕事にならない」と。

そうするといくらか補償くれるの。俺はできなかったけど。

 

 

仕事は、9時出と12時出があって、9時出は午後3時、4時くらいに終わる。

立坑に入って地下12メートル入ったらサウナ風呂と一緒だよ。俺らはズボンはいているけど、俺らが発破かけたやつをトロッコに乗せて運ぶ仕事の人らはパンツ一丁だよ。

 

12番坑*っていったらね、お湯みたいに水が沸いているとこあるの。

洗い場になっていて、顔や手なんかは洗う。身体を洗ったりはしなかったけど。蒸し風呂の中と一緒だからね。

 

*切羽(きりは):これから削岩機で掘る面のこと。坑道の先端とも、行き止まりとも言える。

*12番坑:坑道の深い部分では地下水も熱かったのだろう 

─ 今では寂れてしまっているが、当時足尾の町は活気にあふれており、映画館も劇場もあった。飲み屋がたくさんあり、労働者の憩いの場になっていた。今ではまったくお酒を飲まない坪一さんも、当時は大酒飲み。

 

 

社員寮は、一人ひとりに6畳ぐらいの部屋。料理は食堂があって寮の食堂、たっぷりどんぶり飯だった。

朝は食堂にご飯が出来ているから食べて出かける、弁当は持ってかない、弁当食わなかったなぁ。

 

所帯持ちは社宅がいっぱいあった、俺ら独身は寮にいた。最初の寮は、抗口の近くにあった。

それから足尾町の中才(なかさい)というところに移って、そこから毎朝行った。

俺らが入ったとこはね、職員社宅だったからいいんだよ。中才(なかさい)行っても職員の寮だったんだ。

中才は建物も大きかったね。だから労金(労働金庫)の社長もね、俺らと一緒の寮に入っていた。

テレビ室があってさ、プロレスとか歌番組とか、労金の社長や所長とかみんな一緒になって面白かった。

 

風呂はね、寮にはないんだよね。寮の直ぐ前に職員の銭湯があった。

あと坑口にも大きい風呂があるの。洗濯機のでっかいやつもあって、そこに入れるの。

それで、仕事が終わったら坑口で風呂入って着替えて帰ってくるの。

その頃洗濯したところは今広場になっているの。何か建物も建っていた。

 

記憶の中のまち。通洞

1962年当時の足尾銅山。テレビドラマ「人間の条件」撮影風景。*写真/坪一さん所蔵
1962年当時の足尾銅山。テレビドラマ「人間の条件」撮影風景。*写真/坪一さん所蔵

いやぁ飲んだねぇ、ずいぶん飲んだね。

焼酎はあんま飲まなかった、酒とかビールとかね、通洞の町でね、昔は飲み屋もあったんだよね、寮から歩いて20分くらいかな、ずうぅっと、飲み屋とかそば屋とか喫茶店もあったね。

今は寂れているけど。

 

二日酔いで仕事に入って、エレベーターの中で酒の匂いぷんぷんさせてね。

そういうこともあったよ。

植佐っていう寿司屋も今は小さくなっちゃってた。

川本(食堂)も小さくなってる。

川本の親父も酒飲みでね、クリスマスの時か、一緒に飲んでダンス踊ったり。ヒゲ面をつけてくるんで、痛くていやんなった。

 

ダンスホールはなかったけど、飲み屋なんか行ってね、クリスマスとかの時はね、結構面白かったよ。

映画館もあったし劇場もあって、水原弘とか来たこともあった。

 

『人間の条件』という映画があったでしょ。

あれ、テレビのロケは足尾町で写したんだよ。俳優の根上とか来て。

寮のすぐそばに鉄道があって神社があって、何かに似てるっていうんでロケやってたんだよね。

そのときは随分にぎやかになった。

休みの日は、通洞の町か桐生だね。

桐生は駅の周りとかね、藪塚温泉とかあってね、桐生までは「わたらせ渓谷鉄道」。

足尾の人らはね。

山谷へ。

銅山を離れてからは、茨城の常磐炭鉱、福岡の貝島炭鉱、山口の宇部炭鉱を巡った。

再び足尾へ戻った頃には仕事量が減っていたため、東京・山谷へ。泪橋*で足尾時代の仲間と偶然の再会。

その後、ドヤを拠点に道路舗装や防水の仕事をするようになる。

 

*泪橋…山谷地区の北端。江戸時代から明治初期にかけて小塚原刑場があり、そこの川にかかっていた橋。罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、泪を流して別れを惜しんだことから名付けられた。現在は交差点やバス停の名称として使われている。

山谷にきたのが昭和40年。その頃、足尾の仲間とよく浅草で会った。

便がいいから、足尾からみんな出てくるんだよ。

来た頃の山谷は活気あったよ。朝、暗いうちから通りに出れば人がいっぱいいた。

食堂だってでっかい食堂がいっぱいあったからね。

 

ドヤが一緒のヤツとは、仕事も誘いあって、面白かった。

元々友だちが道路の仕事で来ていたんだよ。

それで、南千住のあけぼの荘にいたヤツがいてさ、遊びに来い、遊びに来いと言われて。

遊びに行ったら、泪橋で足尾の小滝にいたヤツに会ったの。

そいつ足尾で所帯持っていた人なんだよ。競艇で負けて借金つくってね、それで女房子ども捨てて山谷来てて。

 

「こういう仕事はいっぱいあるけど、もしよかったらやらないか」と言われて、”夏目の親父”(日雇いの仕事を紹介する手配師)を紹介されて、そこで働いていたんだよ。下請け。

 

それで防水屋に入ったの。日総防*の。日総防は楽だった。

よそは雨が降っても合羽着てやる。日総防は雨がパラパラ降ったら、はい中止。日当もくれるんだよ。待機だもん。

 

東京へ出てきたらね、あんまりスコップ持たなかった。フィニッシャー*でアスファルト敷くのにさ、調整して平らにしていく。

5センチだったら5センチで。そういう仕事とかボーリングの仕事とかもレバーで調整する。あとは土壌によって薬品を注入したりとか。

 

 

昭和40年ごろまでは砂利道が多かったんだよね。松戸あたりも砂利道だった。

そんで、道路舗装があるからって松戸に行って、道路舗装を飯場に泊まって行ってたんだ。山谷からみんな行ってたんだ。

 

 

手配師もいっぱいいたしね。いい手配師もいたんだよ。

南千住の駅から下って出たすぐ左のあたりの映画館のそばに「リズム」っていう喫茶店あったんだよ。

そこに”ケンボー”っていう面白い手配師がいた。

”ケンボー”の仕事で、千葉の埋め立て地の仕事行ったなぁ。

幕張かな、ブルのね、ブルドーザーの仕事やるんだよ。

向うから声かけてきたよ。「積み込みだ」って言ったの。それで行ったら排土板だからね、ちょっとめんどくさいんだよ。

日給は1万いくらかな。

 

ほかには雑役もよく行ったよ。いい仕事があるとね、行ったの。

それで仕事が決まると南千住から電車に乗っていくんだよ。

 

 

 

*日総防:建築や土木の防水工事をおこなう会社。日本総合防水

*フィニッシャー:アスファルトフィニッシャー。道路等の舗装でアスファルトを所要の厚さに敷き均す機械。

 

 

 仕事中マスクをし、水を使いながら掘っていても粉じんは体内に入ってしまう。

坪一さんが足尾町を最後に訪ねたのは、約20年前。「じん肺手帳」取得に必要な証明書を取るためだった。

当時仕事をしていたが、体調が悪くなり、東大病院の呼吸器科の先生に診てもらい、じん肺の手続きをすることになる。

症状の悪化により仕事ができなくなった坪一さんは生活保護を利用しながら松戸のアパートで生活していた。

アパートの更新ができないと勘違いをしてしまい、自らアパートを出た。

 

その後、葛飾区水元で野宿をしていたが体がきつくなったため、

松戸で生活しているときに貯蓄したお金で再び、山谷のドヤで暮らすようになる。

 

そこで宿泊したのが「金寿荘」。

昔ながらの木造2階建てのドヤ。ドヤの相場は1泊2千2百円前後だが、千3百円という激安で宿泊できる。帳場には坪一さんより二つ年上のおばあちゃんが住み込みで働いていた。

現在営業はしておらず。2017年12月に「金寿荘」の写真を撮らせていただいた時にはまだ住んでいらっしゃった。

 

 

いるんだな。

ずいぶん長生きしているな。

俺より、二つ上なんだよ。

あの人は新潟県。新潟県の山の方。

あそこ、昔いたんだよな。同じ仲間がいっぱいあそこに入っていたんだ。

それで、夫婦者が帳場辞めたんだ。そのとき、仲間で何て言ったっけな…青木だ、青木ってのがいてさ、それが帳場に入ったんだよ。

 

それで、青木がまだいるのかなぁと思ってさ。もう行くとこないしさ。

松戸から出てさ。水元行ったりあちこちで寝てたから。そしたらばあさんがいたんだよ。

 「部屋空いてる?」って聞いたら、一つ空いてるってさ。

いくらだって聞いたら千3百円と言うから。

一晩泊めてくれって、いいよいいよって。布団敷いて待ってるからって。それであそこに入ったんだよ。

 

 

誰も住まなくなったドヤの2階。残像のように人のどよめきが聴こえそうな気配を残している。
誰も住まなくなったドヤの2階。残像のように人のどよめきが聴こえそうな気配を残している。
部屋内部。
部屋内部。

「金寿荘」にいた時だよ。みんなから福祉もらった方がいいよって。

でも、証明がないとダメだろ、住所がないとダメだろって言ったら大丈夫だからって*。

それで、山谷で相談会*やっているからって。

それで、日曜日にずっと歩いて行ったら山谷堀のところでやっていたんだよ。

「あ、これかっ」てさ。

それからなんだよ。福祉なんてもらう気がなかったんだ。調子が悪いからって。役所からもらいたくないと思ってさ。

 

*生活保護の申請:定住する家がなくても生活保護は申請できる。住所がないとダメだと思っている人は多い。

*「隅田川医療相談会」:毎月第3日曜日に山谷堀広場で相談活動を行っている。

 

 

「福祉なんてもらいたくない」と言っていた坪一さんだったが、私たちが何度もドヤに通って説得することにより、生活保護を申請することになった。

 じん肺の病状悪化により、在宅でも酸素を吸入していないと苦しい体調ではあるが、お米作り*や作業日、医療相談会等、日々の活動に外出用の酸素ボンベを引っ張りながら参加する。私たちの役割は坪一さんのような方を福祉事務所につなげたり、地域包括につなげたり、訪問診療にしたりと、必要なものにひとつずつつなげ、その人らしい生活を送るための土台を一緒につくっていく。

 そして、この地域で一緒に暮らしていこうというメッセージを送り続けていくこと。坪一さんの今後の目標は高齢者住宅に入って、今よりも少し広いお部屋で生活すること。都内の高齢者住宅は倍率が高く、なかなか当選しないが、もし当選したらみんなで大宴会をやろう。

 

 文・荒川 朋世

 

 

*お米作り…荒川「フードバンク」の活動。寄附された食材&仲間たちと育てた米を、様々な福祉施設や子ども食堂、生活が苦しい人たちに届けている。